西郷どん 江戸城無血開城~田原坂の戦い 西郷隆盛自刃まで 

江戸城無血開城
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出典:http://matome.naver.jp/

1868(明治元)年 隆盛41歳の時、勝海舟と会談し、江戸城開城を交渉
その後、江戸城無血開城・慶喜が江戸を去る

1869(明治2)年 隆盛42歳の時、明治新政府から東京残留の要請を受けるが、薩摩へ
その年、正三位に叙せらる。


ここでちょっと小ネタを!
西郷隆盛は、父の名だった。本名は、「隆永(たかなが)」だ。

隆盛42歳の時、朝廷から正三位を授けられる時に本名が分からなかった新政府は、
西郷の親友の吉井友実の証言で「隆盛」として、以後それが本名になった。

隆永⇒武雄⇒隆永⇒隆盛⇒隆永⇒平隆盛⇒隆永⇒隆盛という本名が変わっている。


1871(明治4)年 隆盛44歳の時、廃藩置県を断行する。(大藩の反対があった)
前年に岩倉具視と大久保利通が鹿児島に行き、西郷隆盛の上京を説得。
6月に薩長土の親兵8000人が東京に終結。西郷の命でいつでも出兵できる体制を作った。
そして、いざと言う時は、自分ひとりが引き受けると、廃藩置県の議を強行突破した。

この年、岩倉具視を特命全権大使、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らを副使とする
政府要人48人、留学生60人余りによる欧米使節団が出発する。
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツを来訪。2年近く日本を留守にすることとなった。

1871(明治4)年 隆盛44歳の時、島津久光が西郷隆盛詰間十四カ条を発表。
島津久光が書いた西郷隆盛詰間14カ条は、元の封建の世に戻せという世迷言だったため
西郷隆盛は、半年間も鹿児島に滞在し、久光をなだめた。
生涯相いれなかった、隆盛と久光。
島津久光
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ご存知だっただろうか?、今上天皇は、島津久光の玄孫(げんそん・やしゃご)です。
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出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E5%85%89

この年、新橋~横浜間で鉄道が開通した。


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